気ままに48

48グループのヲタ活の雑多な記録

STU48「そして人間は無力と思い知る」歌詞解釈

STU48「そして人間は無力と思い知る」の歌詞は非常に難解である。様々な解釈がありえて、どれが正しいかなんて決められないことを承知の上で、自分が一番しっくりした解釈を以下に書いていきたい。

 

STU48 そして人間は無力と思い知る 歌詞

STU48 花は誰のもの? 歌詞

 

「そして人間は無力と思い知る」は、新公演「花は誰のもの?」公演のために、秋元康が書き下ろした新曲である。STU48の楽曲だけで新公演のセットリストを組むにしても、すでに十分な数の曲があるのに、わざわざ新曲を作ったのは、新鮮さやサプライズ感を与えたいという目的だけではないと考えている。

 

「そして人間は無力と思い知る」は、「花は誰のもの?」と対をなす曲、陰と陽を表す曲であると私は解釈している。

 

公演の表題曲である「花は誰のもの?」は、ロシアによるウクライナ侵攻を背景に書かれた曲である。国境が消えたらみんな幸せになるという平和へのメッセージを伝えるこの曲は、今となってはポジティブで楽観的な印象が強すぎるから、その対極として「そして人間は無力と思い知る」を置くことで、バランスをとろうとしたのだと思う。この2つの曲の歌詞を書いた時期が異なり、ウクライナ侵攻がはじまった直後に「花は誰のもの?」を書いたが、その後、当初の想像を超えてウクライナの悲惨な状況が報道されるにつれて、 秋元康の感じ方、受け取り方が変わり、軌道修正するためにこの曲を作ったのかもしれない。

 

以下のとおり、この2つの曲の歌詞は対称的な関係にある。

歌詞の特徴 花は誰のもの? そして人間は無力と思い知る
歌詞のイメージ ポジティブ
(例「しあわせを分けてあげよう」「僕たちは自由を諦めない」)
ネガティブ
一人称の代名詞 「僕たち」「僕ら」
(一体感、連帯感を表現)
「僕」
(孤立した自己を表現)
季節
(「花」は春の季語)

(「夕凪」は夏の季語、「夏祭り」という言葉も出現)
「ひと」を表す漢字 人間
(人と人の関係性をとらえた表現)

 

「そして人間は無力と思い知る」の全体の話の流れとしては、以下のようになっている。

1番の歌詞: 

  • 風が泣いている理由がわからず、困惑する僕。周囲が不穏なものにみえて、不安を感じている。
  • 風が泣きやむのを待つことしかできない自分の、人間の無力さを嘆く。
  • 無力で助けてあげることはできないが、だからといって、それを無視することはできない。

2番の歌詞: 

  • 昔は世界が美しくみえた。昔と今との落差に涙する僕。
  • 風の泣き声がだんだん聞こえなくなってくる。耳をそばだてたり、目を閉じて集中して泣き声を聞こうとするが、「もう 他の人のことなど考えるな」という悪魔の声が耳元でささやかれる。
  • 葛藤に苦しむ僕。最後は諦めて、泣き声が聞こえたのは自分の思い違いだと、耳をすますのをやめる。

この曲中で「風」は、AKB48「風は吹いている」の歌詞と同じ意味で使われていて、自然界の生命を象徴している。

この曲全ての歌詞の解釈をここで説明するのは難しいので、とくに重要と思われる3つの部分に絞って説明したい。
 
1つ目は、この曲中で唯一2回出てくるサビの歌詞、
そして人間(ひと)は無力と思い知る
何を語ろうとそれは止まらない
ああ 偉そうに聞いてても無駄だとわかる
どうであろうと 僕は風を無視できない
曲のタイトルになっている歌詞が現れる、とくに難解な部分である。
立場が異なる人間同士のコミュニケーションの不毛さが表現され、たとえ無駄だとわかっていても、泣いている存在を放っておくことができないという「僕」の心情が現れている。
 
「それは止まらない」の「それ」が意味するものが1回目と2回目で変化すると私は解釈している。
1回目は、その前の歌詞「今 僕にできることって 夕凪*1を待つことだけかい?」の文脈からみると、「それ」は泣いている風を意味している。
2回目は、その前の歌詞「もう 他の人のことなど考えるなと おせっかいな僕に耳打ちしてくれてる」によって、他の人の不幸の存在が示され、より直接的に言えば、ウクライナの人たちが直面している苦しみを止められないことを意味している。
 
 
2つ目は、心象の描写がひたすら続くなかで、唐突に情景描写が出てくる2番のAメロの歌詞、
遠い夏祭りの夜に
くるくると回ってた
色の綺麗な風ぐるま
誰の想い届ける?
この歌詞は、曲中で唯一明るい印象を与えている。
風ぐるまは子供向けの玩具である。人工物である風ぐるまは、自然現象である風に吹かれて回ることによって、玩具として機能する。くるくると回る風ぐるまにのせて、「誰の想い届ける?」と無邪気に問いかけることができていた。
しかしそれは遠い昔のこと。今やその美しい調和は崩れ、人と人は想いが届かないくらいに分断されてしまった。その落差に「僕」は涙し、後続の歌詞「知らぬ間に頬に流れる 一筋の涙よ 収まれ」につながっている。
 
 
3つ目は、最後のサビの歌詞、
どこで誰が泣き声 上げようが
僕はそれを思いやる余裕がない
こんな情けない自分の聞き違いだと
納得をして 風の中を歩き出そう
はじめの「どこで誰が」で、泣き声の主が風から人に転換している。
誰かが泣いていてもどうすることもできない、無力な自分を嘆き悲しむ姿がこれまで繰り返されていたが、最後に話が急展開する。
誰かが泣いているということ自体がきっと自分の思い違いだということにして、今まで「無視できない」と何度も「おせっかいな僕」が執着していたもの―助けてあげることはできないが、悲しんでいる存在があるということを認識し、共感してあげたいという気持ちを捨てようとしている。普通「歩き出そう」という言葉は、前向きな表現として使用されるが、ここでは真逆の意味になっている。
 
この曲を単体でみたら、こんな救いようのない終わり方はないのではないかと思うかもしれない。しかし冒頭に述べたように、この曲は「花は誰のもの?」との対比、バランスの上で解釈されるべきである。このくらいの終わり方でなければ、この2つの曲が表現する、希望と絶望の均衡がとれないと秋元康は考えたのかもしれない。
 
 
以上が私の「そして人間は無力と思い知る」の解釈である。
 
この曲の歌詞は、今回引用したところ以外にも随所にいろんなピースが散りばめられていて、かなりの時間と労力をかけて作詞されたのではないかと思われる。新公演のためという大義名分の下、たんなる1つの公演曲という枠を越えて、秋元康が作詞家としてのある種の償いをしようとしたのではないか、と思えてしまうくらいに。

*1:「夕凪(ゆうなぎ)」とは、STU48の拠点である瀬戸内海などで夏の夕方に起こる、陸風と海風が交代する時の一時的な無風状態のことである。